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Chesapeake's ワシントニアン日記

Chesapeake's ワシントニアン日記

愛しのネパール

【男のロマン◆ネパール回想】

私が高校最後の冬休みだった年に父はある日宣言した。
「今年のクリスマス・プレゼントと正月のお年玉はネパール・トレッキング15日間旅行だ」

夕食を食べていた私は口のなかのものを吹き出しそうになった。
17歳だった私は、楽しみにしていたアメリカンスクール仲間との大みそかの六本木プランを台無しにされた。
当時BFだったスコットもハワイ大学から冬休みのために東京に帰ってきていたのだ。
(翌年は彼も招待してニセコでスキー旅行)

「えー、困る! 私もう冬休みは計画済みなんだけど。私ひとりで留守番していい?」
「ダメ。みんなで行くの」
「どうしていつもの様に嬬恋スキーにしないの? そっちの方がいい」
「ダメ」
「じゃ、温泉」
「ダメ。もうチケット買っちゃった」 うっ。。。

ブーブーと自分勝手な私の文句を横に家族は着々とプランを立てていく。
いつのまにか私のすぐ下の年のイトコYも同行することになった。
え、Yも来るの? じゃ、ちょっとマシになった。(現金なわたし)

母はもとからアウトドア系のものは苦手だったので彼女もあまり嬉しくなかったようだが、
全員でいくので大人しくしていた。

私は反対に父に散々幼いころ鍛えられていた為、とりあえずアウトドア系であった。
体型や運動神経からいくとそう思われる。(本性は室内でぐーたら系かも)

ネパールへ着くまでの22時間は辛かった。中華航空で羽田から台湾 ─ 台湾から香港 ─ ドラゴン航空で
香港からダッカ・バングラデシュ (注油のためストップ。飛行機からは降りない。ここでは機関銃をもった
軍隊が飛行場を警備しており怖かった) ─ ダッカからカトマンドゥに到着。

カトマンドゥに着き、空港から出た瞬間、現地の子供達にワーと囲まれ、お金をくれと一斉に手を出してきた。
親に送り出されている子供は観光客を対象にお金を稼がされているのだ。

唖然としながらもタクシーに乗り込み、ホテルへ連れて行かれた。
着いた当日はみんなで異国での買い物や初めての値切りというものを楽しんだ。

次の日はポカラまでプロペラ機で飛び、イギリス系のホテルに泊る。
何だか40年代の映画に出てきそうな感じのお洒落で上品な古風のホテルだった。
インド系の料理を贅沢なチャイナやシルバーウェアで頂いた。
ウェイターも頭にターバンを巻いていた様な気がする。
まるでサファリでバカンスをする大富豪のような感覚。

翌日、ジープで麓で下ろしてもらい、4日間登り・4日間下りのトレッキングに出発。
トレッキングのコースはミュール(馬とロバの合の子)が歩く道と同じであり、できたてホカホカのフンも転がっていたり。

家族メンバー一人ずつしっかり自分の寝具、ダウンジャケット・パンツ、着替、
ダウン入り4シーズン用寝袋、トイレットペーパー、タオル、等をつめたリュックを背負っている。
腰から頭の高さくらいまである。

夫婦で雇われたガイド兼ポーター達も同行である。彼等は現地で足腰鍛えられ、
旦那さんのリンジは炊事・英語ができるマルチ人間であった。ネパール人だが、チベット系の人種であり、
顔立ちもとても綺麗で人懐つこかったのを覚えている。

ポーターということもあり、彼等は物凄い荷物を背負っていたが、一番足取りが軽かった。
ペースを見ながらスピードを調節してくれるのだが、運チなマイ・マミーと9歳だった妹は列の最後。
父は最初は張り切ってさっさと先頭を歩いていたのだが、そのうち母が気になりゆっくりと後ろのほうを歩くようになった。

めんどくさいながら、挑戦されると受けてたつ性質の私はイトコのYと競争のようにどんどんと先へ行ったりした。

8日間の登り降りは毎日がひたすら歩き、食べるためと寝るためだけに村による、ということの繰返し。
夕食は泊るための村へストップ。昼食も夕食も同じメニューで、タルカリにダル・スープ。
ゴハンには砂利が入ってたりする凄いものだったが、私はこの素朴な料理が新鮮で最高だった。
スパイスの効いたバッファローの肉もアラカルトで注文したりした。母はそんな私を日頃とは違う目でみていた。
この頃から私のエスニック料理好きが始まったのだろうか。

夜は大抵離れた木の小屋の中のベンチそれぞれに寝袋をおき、標高およそ2500-3000Mのせいで
マイナス何度という気温で寝るため、ダウンジャケットとパンツを着込んで睡眠。

若者・冬場という弱点もあり、夜中はみんなで起き出し、懐中電灯とトイレットペーパーをもって外にある
「トイレ」にいく。トイレとは、地面に掘ってある穴であったり、木陰であったり、
豪華なものだと崖から突き出た300メートル下の地面が見える小屋だったりした。
これはさすがに用を足すまでかなりの時間がかかった。
(高所恐怖症でなくても、谷からビョーっと吹き上げてくる血も凍るような風に出るものも引っ込んでしまうからである)
この時ほど実家のウォームシートのトイレが恋しかったことは無い、と断言できる。

朝一番は決ってリンジが妙に甘いコーヒーの様なドリンクを作ってくれた。
これがとても楽しみにしていたアイテムになっていた。(どこかで入手できるだろうか)

ゴラパニ峠を越える頃、夕日に照らされピンクがかったマチャプチャレとアンナプルナを拝んだ。
生意気盛りの17歳の人生ではじめて素晴らしい景色を目にして感動した。
大学時代、エベレストで山岳部の同僚を肺炎で亡くした父はどう思っていたのだろうか。
気を改められていた私は父のことも気になっていた。

ゴラパニのレストハウスは今まで泊ったところより豪華であった。
やはり同じ目的できているドイツ人、オーストラリア人、アメリカ人の登山客もいた。
先ほど目にした感動を語り合うように和気あいあいと誰とでも話しかける。
アウトドア系の人間達はみんな国境を越えた理解を持っているとも言える。
飾らない、気取らない、そして感動を素直に伝える。

夕食が終わったあと、ドイツ人の人たちとトランプを楽しみ、9時には失礼する。
ゴラパニが日程にあるポイントでは2番目に標高が高い地点でもあり、夜は物凄く冷え込んだのを覚えている。
トイレもやはり出たいものが出てこない。

翌朝、5ルピーを払ってお湯の入ったバケツを頂く。5日目の初めての洗髪である。
一人バケツ一杯だけで洗顔、洗髪なので交代で手伝う。マチャプチャレを拝みながら
レストハウスの前の草のはえた地面の上で足を踏ん張り、前かがみに洗う。頭からは湯気がでる寒さでもあったが爽快であった。

ゴラパニを後に惜し気に去った5日目。一度はデオラリ(3103m)まで登るが、
トレッキング後半は殆んど下りだということもあり、なんだか消極的なメンバー。
さっさとこの旅行を終えて東京に帰れる、なんという気持は全然なかった。

自然の厳しさと壮大さ、小さな幸せの豊富さ、貧しいながらに精一杯生きているネパールの人々、
そして家族と一緒に一つの目標を共にする、ということの素晴らしさを満喫していた。

【青春した妹】
旅行中一番ドジの多かった真ん中の妹アリー(当時中2)は、よく道ばたに落ちている
ミュールの糞を踏んづけたりしていた。この事でよくからかわれていたのだが、
いつの間にか糞を踏んづける事を「青春する」という風に言い回すようになっていた。
本当に何処をみて歩いているのか分からないくらい青春していた彼女だったのである。

彼女の青春はこれに定まらず、なんともっと凄いことをやってのけてくれたのである。
その後に起こった事も母は今でも鮮やかに覚えている。

下り始めて最初か次の日だっただろうか。崖沿いのゴツゴツした道を一列になって全員気をつけて降りていく。
ガイドのリンジも足下に気をつけて、と注意していた。慎重でありながらも会話しながら降りていくメンバー。

その緊張はしているが明るい空気を破ったのは「キャーッ!!」ともの凄い悲鳴。
ギョっとして振り返ると私の後ろを歩いていたアリーが「居ない」。

一瞬誰もが凍り付いたように動かない。1メートルの幅もない道のすぐ横は岩だらけの崖。
何故か私は冷静に端まで駆け寄り崖側を覗き込んだ。変な言い方かも知れないが、
彼女がどこら辺まで「落ちた」かを見るためであったと思う。

アリーは10メートルもしない岩場に仰向けに転落していた。
彼女は恐怖で目を見開いて呆然として空を見ていたのが印象に残っている。

私はリュックを脱ぎ捨て、横でショックでボーっと突っ立っている家族とイトコを残し、
岩から岩へ飛び、夢中でアリーの元まで降りた。
彼女の怪我の状態を調べるためでもあった。
こんな所へ救急車やヘリコプターがくる訳がない。重症だったらどう運ぶのか、
などとかなり先のことを悩んでいたりしていた。

天のおぼし召しだったとしか言いようがない。彼女は強運にも自分で背負っていたリュックの上に直接落ちたのである。
何処も折れている様子はなく、腰の辺りに鮮やかなアザができていた。
あの高さから落ちて頭をうったら絶対に重症だっただろうし、打撲・骨折も当たり前だっただろう。

彼女が無事で殆んど無傷だということを確かめた直後、冷や汗とめまいに一瞬襲われた。
土壇場の馬鹿力を提供したアドレナリンが退いていったのだろう。

彼女にこんな所で死なれたらどうしようか、なんてマジで心配してしまったではないか。
彼女も極度の緊張感が溶け、泣きはじめたのを私は抱き寄せた。
「ダメじゃない、心配かけて。もう2度と会えないかと思ったよ。こういう所はよそ見して歩いちゃだめだよ」
「うん 、ごめん」(嗚咽)
「立てる?」
「うん」(嗚咽)
「歩ける?」
「うん」(嗚咽)

私はアリーのリュックを崖の上まで持ち上げ、その後は彼女をゆっくり父の手が届くところまで歩かせた。
父も「大丈夫か」と明るく声をかけたが、目が険しかったのが印象に残っている。
母は末の妹を庇いながら真っ白な顔だった。

アリーの命の恩人のリュックはリンジがその後、山のように積んだ彼の荷物に足された。
父、私、イトコのYと交代で彼女を見ながら下山を続けたのは言うまでもない。

家族全員相当にビビっていたらしく、しばらくギクシャクしていたのだが、
私はイトコのYとギャグの飛ばし合いをはじめた。
「アリーも青春した中でこれが一番の青春だったね」ワハハハ! 。。。ハ

母から後で聞かされたのだが、私が一番こういう時に役に立つということは前から知っていたが、
崖から飛び降りる行為は信じられない事だったらしい。

私がプレッシャーに強いのはピアノ演奏やコンクールで鍛えられていたからだろうか。
とにかく普段はポーッとしている私でも、肝心な時には能力を発揮するようである。

【チェサピーク、ついに失脚】
ネパール旅行の間、家族のメンバーそれぞれゲリ・嘔吐など色々マイルドな症状があったりした。
私だけはなぜか食べ物・飲み物すべて平気でピンピンしており、ローカルの様になんでも気にせず食べていた。

ところが運命というものは残酷。
ずっと何事も無い、という訳にはいかなかったようである。

トレッキングが無事おわり、麓のポカラまでもどり、あの古風で上品なホテルに戻った。
その夜の御馳走はチキンのカレーソースのようなグルメ料理と再会。

また大富豪のようなお食事を済ませ、その夜はマットレスのある豪華な寝室でいい気になって寝た。
末の妹のリサはランプを点けてトレッキング中できなかった夜間読書に浸っていた。

翌朝、プロペラ機でまたカトマンドゥに戻る準備中、私は吐気に襲われ、ホテルのバスルームにこもった。
何事か、と妹達や母が覗きにくる。

たぶんトレッキングが無事終り、気が緩み、食べ過ぎたか何かに当たったのだろう。
死にたい位気持悪かったが、そんな体にムチうってプロペラ機に乗った。

プロペラ機は言うまでもなく非常に揺れるもので、乗っている間は嘔吐との戦いであった。
悲しくも紙袋がその日の私の旅のお供であった。

【ファミリー旅行振り返って】
最後に失脚した私だったが、カトマンドゥのホテルに戻り、半日昼寝をしたらケロっと治った。
残り少ない日数は家族一斉で繰り出し、片っ端からセーター・コート・線香・シルバージュエリー・
美しいヒンドゥーの絵巻などのお土産の買い物を楽しんだ。お年玉はくれないはずだった父も新年で
めでたい気分になっていたのか、みんなに500ルピーをそれぞれ分け与えた。

家族みんな発熱、ゲリ、嘔吐などあったけど、一番思い出になったのはアリーが「青春」したことだね、
などとさっそく思出話。そのときは笑えない状況だったのだけれど。
まさか岩登りでもないのにアリーが崖から落ちるなんて誰も思っていなかっただろう。
(全員寿命が10年くらい縮んだと思う)

ガイド兼ポーターのリンジやホテルのオーナーの息子さんとも仲よくなり、
これからも手紙でやりとりする約束をし、お別れした。
ネパール語の「ナマステ」がハワイの「アロハ」と似ていることにも気づいていた。

行きと逆の航路を22時間隔て東京に戻る。
2週間後に帰ったホーム・スィート・ホームは何故かいつもより大きく感じられた。

お湯の出るシャワー、どっぷり浸かれるお風呂、ウォシュレットとビデ付の室内トイレ、床暖房、
電気式毛布、セントラル・ヒーティング、冷蔵庫、ストーブ、ポット、水道、炊飯器、電話、FAX、電気。。。
書き出したらキリがない位、なんと私は今までこんな贅沢を当たり前だと思っていたのだろうか。
すべてが新鮮で愛しかった。

パピイ、こんな貴重な体験をありがとう。
なんでも当たり前と思って生活していては根が腐ってしまい、器の小さい人間になっていたと思う。

この家族旅行はいつまでも忘れず、子供の子供に語り伝えるようになるだろう。
またお婆ちゃんのいつもの昔話が始まった、と笑われるように・・・。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

男のロマンとして書いた理由なのですが、父ほど自由きままに、
あるときは登山、あるときはトライアスロン、あるときはテレマークスキーに
繰り出す男性は稀だと思うのです。

それは家族というものがあり、危険な事は避ける、という理由も
あるのでしょうが、健康的・金銭的な問題にも及んだりします。
(ウチの場合、金銭的な問題では無いのですが、数年前のゴールデンウィークで、
登山スキーの際、父は崖から250メートル転落し、行方不明になり、首の骨にヒビが入った、
という恐ろしい目にあったことがある。「驚かないで聞いてね」と母から電話が掛ってきて、
ここからでは何も出来ない不安に駈られたのを覚えている。当時はニュースにも載ったみたい。)

母や時には私たち姉妹にヒンシュクをかいながら、父はつねに夢を追い掛けて
いるのです。それは時には迷惑だったり、時には眩しかったり。

大人になり、結婚し、家庭をもち、子供を産み、仕事を持ち、毎日の
雑用に左右されるようになってからは、★男のロマン★を貫く
父が私には羨ましくもあり、眩しいのです。


◆トレッキング・コース◆

往路:ポカラ→ノーダラ(Naudanda)→カーレ→チャンドラコット→ビレタンティ→
ヒレ→ティルケドゥンガ→ウレリ→バンタンティ→ナンガタンティ→ゴラパニ (Ghorapani 2663m)

復路:ゴラパニ→デオラリ(3103m)→タダパニ→ガンドルン→ランドルン→ダンプス(Dhampus 1799m)→
フェディ→(ジープでポカラまで)


◆父のメールより◆
ガンドルンとランドルンの間は深い谷で、急な下りと登りがあって、ジャッキー(母)が
完全に脚の筋肉を使い切ってしまい、歩くのがやっとになったのです。

最期に泊まったのがダンプスです。ここの主人はイギリス軍グルカ連隊の兵士だった人で、
英語が得意でしたね。トイレもまあまあで、手で水を流す水洗でした。

フェディーからはロシア製の古いジープに乗って砂埃の道を帰りました。
チャンドラコットは1日目が2日目でしょう。外国人と交流のあったのは最期のダンプスではないのか?
(それはゴラパニだったと思う私)

最高地点はデオラリのようですね。雪の上をあるいたから覚えているでしょう。
私の最高地点はもちろんゴラパニから往復したプーンヒル(3198m)です。

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